精神型実戦武道
掣圏

掣圏 試合場イメージ

掣圏 掣圏真陰流と掣圏

2008/8/2更新 陰の道

精神武道である陰は、あらゆる場面に動じない、不動の心を造る自己構築の場である。

陰は人の自己構築の姿を器で表す意である。
「今」の部は器の蓋(フタ)を指し、意識の意。
「云」の部は器の中の雲気=無意識の状況を指す。
器自体は自己の姿であり、器の外は外界である。

陰を縦の軸に構築した掣圏士は、あらゆる場に不動心たる、真の武道家となって完成する。
心を縦の線で固める生き方だ。

戦いの場だけではなく物事が起こす全ての対応が、弱さにヒビかない陰を構築し自己を安定させる。


2008/7/28更新 圏の道

戦わずして掣す

精神武道である圏は、森羅万象に対する自己の感覚である。
掣は「手刀」イコール刀で制すという意であるが、敵を直接制すのではなく、無意識が生み出す内面的強さで、自己の心を掣し不動の意思を導くものである。
心を縦の線で構築する生き方だ。
縦を軸に、あらゆる圏に精通したとき、掣圏士は真の武道家となって完成する。

大宇宙の潮流の中、我々は現潮流の今に存在し、堂々と流れを導く者となるのだ。
全ての基本はここにある。

五感を鋭く研ぎ澄まし、森羅万象、全ての気配を高めよ。
大空や光り輝く海を見て、波の音を聞き、潮風と太陽を体感し、
義を軸に、喜びを、怒りを、悲しみを、髄まで感じ、
無意識が真の気を知ることで、心は不動となり全てを掣す自我は育つ。

真の気で構築する軸は、全ての圏を掣す義となる。

礼儀作法、態度、服装、身だしなみ、倫理、道徳。
義を信念とする者は、かつて侍がそうであったように、すべてを正なる気と集中させることで、無意識に最大限の行動を秘めたる人格となるのだ。

欧米の精神文化は、喜怒哀楽を意識に出すもの。
武士道の精神文化は、喜怒哀楽を無意識に秘めるもの。
我々は秘めることで生きていく強さを持つのだ。

秘める普遍的無意識を持つ者が、その精神基底を忘れ捨て去り、意識文化を真似しても、何らまとまるはずはない。
中途半端な心の崩壊が始まるだけである。

縦の軸を無くし、自由・平等・博愛を履き違え、規範を無くし、礼儀を無くし、威嚇だけの弱い心をさらけ出し、精神を崩壊させる姿。

愛で精神基底が構成された一神教に対し、武士道の精神基底は死である。
一神教が愛で人を助けるのであれば、武士道は死の概念で人を助ける。
それは、できなければ恥という観念になって無意識に入る。

日本人独特の奥ゆかしい立居振る舞いや、謙虚な姿は、規範ある強さへのパートとなり構築されるのだ。
その姿は優雅で無限に強い心を秘めるものになる。

自己の心を掣す掣圏士の道は、常に小刀を心に抱き、義を構築し、潮流を確保することである。


掣圏の主旨

義を納める掣圏

掣圏そのものが精神道であり、心の軸「義」を自己に造るために、義軸に奉納するための闘いである。
掣圏は宗教ではない、自己に義を形成するための誓いの場なのだ。

真の武道は己の精神を不動にし、弱さに負ける心を持ち合わせない。
無意識に弱いパートを構築せず、自己に築きし信じるものを信じ、立居振る舞いや勇気が高度な姿勢を表す。

縦に生きる武道精神の軸とは、義である。
義は普遍的な無意識に、自己犠牲をいとわない、強い信念を正しいと当たり前のように構築した姿だ。
このような自我を持つ心は、自己に造り上げた原理原則を主義とし、あらゆる出来事に、憤慨、嘆き、恐怖、プレッシャーがあろうとも、義を軸に対処する。

武士道では藩やお家を軸として、死を賭す姿が潜在意識の中心であった。
切腹を構築した無意識の各パートは、弱さにヒビくことのないリソースで満たされている。
たとえ死を向かえるその時でさえ、辞世の句を読む余裕が美徳とされるくらい、強さの心を直接暗示する構図を造っていたのだ。

切腹は自己人生を遮断してまでも、原理原則の魂を証明した。
現世や後世にも恥の概念を具現化させ、自分はこう生きたと、サムライとしての覚悟や規範を社会に伝達したのだ。

当然のごとく現代では、パートの基準に切腹を置くことは許されない。
では、切腹を置くことのない現代武士道が、従来の価値を現代の科学心理学でリフレームしてみよう。

当時、腹を切り己の魂を証明する切腹を常に持つ精神は、武士として最も価値のある生き方であった。
義の魂を証明できる死こそが、その健在意識にサムライとして誇れる、行動主義的な社会正義の姿である。

縦に生きる証明で死を植え付けていたなら、科学論理を知る我々武道家は、無意識下に同等となる軸を植え付け、真の現代武士道を形成しなくてはならない。
精神基底を無くされた日本という国の未来がかかっているのだ。

我が国の恥の文明は死から生まれたものである。

「義を見てなさざるは勇なきなり」
困った人がいて、助けることが出来なければ、サムライとしては切腹ものと自覚している。
その概念は恥となっていった。

心理的に恥の表裏は名誉であり一体化する。
名誉無き社会は崩壊し、社会の向上性は無くなるであろう。

ルース・ベネディクトが言う欧米の文化が、内的な良心を意識する罪の文化であるなら、サムライ文化は内的な良心を信じ、さらに奥ゆかしさで、無意識にその良心を構築させ、コミュミケーションを取り合う恥の文化である。

そこには大いなる強さのメタファーが潜んでいる。
日本文化が生んだ立居振る舞いとは、死の覚悟や名誉から生まれた無意識への義を守る事を含ませたものなのだ。

普遍的無意識の違う人々には、一見理解できないはずで、外的な批判を意識する、恥の文化と見えるだろうが、恥の概念の深さがまるで違うのだ。

義に勇を含んだ、真剣なる立居振る舞いは、高い民度を作り上げ絶大な力を発揮する。

米英主導の、エネルギー利権、金融利権、武器利権が、近年ロシアや中国等、反米国の対等で逆転している今、世界をコントロールできない現状。
アメリカは日米安保をアジア安保へと切り替えようとしている現状。

米国からの従順関係を脱却し、真の自立国として独立するチャンスではあるが、そのキーポイントは、防衛と精神基底の復活である。

アメリカからもアジアからも信頼される自立自尊の民度高き国。
将来何が起こるか解らないが、現代は帝国時代ではない。
しかし国内の体制は、未だに表面上の独立国面した従順態勢に甘んじている。

我々に必要なのは精神的に独立国として、国民各自の精神基底の確立である。
いつまでも戦勝国の呪縛や裏工作にひっかかり、トラウマ的な自虐平和ポピュラリズムにもあきれるばかりだ。

自立自尊は確信する思想から生まれる。
私たちが世界に対応できる、堂々たる精神基底は義である。

掣圏は義という軸を構成せしめし奉納するための闘いである。
我が国八百年の武士道精神を礎とし、真の精神基底を戦後平和ボケ思想や、士族主義に順ずるものではなく、国際社会に対応した心を構築するものである。
世界を知り、科学を知り、日本を知り、真の武道を知らなくてはならない。

掣圏と掣圏士

掣圏士たるもの、義を軸とするものなり
義を軸とするもの、礼儀に優るものなり
礼儀に優るもの、摂理を守護するものなり
摂理を守護するもの、心を把握するものなり
心を把握するもの、文武両道に通じるものなり
文武両道に通じるもの、正義を抱くものなり
正義を抱くもの、普遍の慈悲を持つものなり
普遍の慈悲を持つもの、心広きものなり
心広きもの、強者なり
強者たるもの、正義を決断できるものなり
正義を決断できるもの、勇あるものなり
勇あるもの、規範に優るものなり
規範に優るもの、英知あるものなり
英知あるもの、立ち居振る舞いに優るものなり
立ち居振る舞いに優るもの、義軸を持つものなり
義軸を持つもの、至高あるものなり
自己を高める掣圏なり

市街地型実戦としての掣圏。
実際の市街地実戦での有効性を追求した、ヒット&バランスの融合戦、それは間合いと足腰を造るもの。
闘いは寝技も極め技もあるだろう。
実戦上では、市街地上での有効性を追求した武道が「掣圏」なのである。