最新情報 2008年6月

2008/6/30(月) 佐山武道の本質

なぜ相撲のような格闘技を創るのが理想なのか。

普遍的無意識が通じ合わず、何が起こるか分からない、他民族との戦闘を繰り返してきた世界の挨拶概念は、我々の礼の観念とは異なっている。

彼らのもっとも身近な例に、ジャングルなどの未開の奥地で、他部族との初対面の時、戦う意志はないという友好のコミュニケーションを取る姿がある。
融合し慣れても、戦う気は無いという姿が、社会生活の基本となり、挨拶の概念となっていく。
握手の起源は「私は武器を持っていません」という、互いの意志を伝え合うものであることは、よく知られている。
やがてキリスト教に飲み込まれ、お互いが親しみ合う挨拶となっていく。

一方、普遍的無意識が通じ合う、単一国家であった我が国の姿は、挨拶が美徳礼儀とされていった。
友好であろうと敵であろうと、堂々とした挨拶を見せていたのだ。
ペルソナの概念でいうと、礼儀がサムライとしての誇りと自覚を形成しており、武士道挨拶の起こりは、堂々たるサムライ(規範ある武人)であると、知らせしめるものだったのだ。
仏教は武士道を飲み込む性質のものではかった。
その教えは、科学や思想として武家社会と融合し、より顕著なる武士道の姿が体系化されてきたのだ。

やがて江戸時代に入り世は平定され、礼儀は相手に尊敬の念を表すものとなる。
挨拶の基本的概念が世界と違うのは、握手と武士道の違いであるからだ。
武士道の礼儀は、封建制の確立を成してきたと同時に、神道観念のサムライ文化が仏教(科学と思想)と出会い、確固たる規範心と、我が国の精神姿勢を構築してきた。

現代は封建制を受け入れられる時代ではないが、封建制を体験した国は民度が高いという。
宗教心以前の規範構築が礼の中に隠されているのが、日本という国の実体なのである。
それが解らず、礼を礼儀として、子供達に教えていないのが問題なのだ。

貴族社会を打破してきたのが学歴社会である。
その学歴社会も万全ではないことが今は明らかだ。
能力社会はさらに格差が出て、金が神様の社会に落ちていった。
現代に武士道を具現化すると、もとの封建制度や貴族社会に戻ると感じるかもしれない。

ご存じのように、佐山武士道は精神性であり、21世紀の規範構築でもある。
そこに封建制や男尊女卑や差別があってよいわけがない。
しかし規範構築心なく、自由・平等・博愛を実践しようとすると、全てを勘違いした社会となる。
見よ!不良や事件が溢れ、自由を勘違いした社会。
区別と平等を勘違いした社会。
勇が義に出ない、博愛の無い世界。
ここまで民度を低くしたのは誰のせいか。

学歴社会、能力社会、良いではないか。
高い規範の魂が、21世紀にチューニングされていれば、恐れるものはなくなる。
真の独立がそこにあるからだ。

礼には多種類の姿がある。
自覚を表す礼態度(敬礼)。
相手を尊敬し敬う礼態度(硬姿勢礼)。
握手観念のように、友好の証とする礼態度(柔姿勢礼)。
ビジネス上での礼態度(硬柔姿勢礼)。
謝るための礼態度(堅深姿勢礼)。
接客上での礼態度(柔深姿勢礼)。
一神教規範心で構成されてない我が国の礼儀は、礼そのものが規範を育てるペルソナである。

格闘スポーツにおいて、競技者は何のために礼をするのか?
そもそも実戦とは何か?
まともにやると、目突き技術の優れた者が優位となり、その闘いに礼儀は無い。目潰し、噛みつき、ひっかき、むしり、指折り。
凶器もあるだろう。ナイフ、刀、拳銃。

しかし闘いには規制というルールがある。
とすると格闘技とはスポーツである。
スポーツである以上、他のスポーツと同様、同じような礼や握手は行う。
世界が「私は武器を持ってはいない」と観念するなら、日本人は「正々堂々と戦います」と、意気込みの観念を見せるのだ。

一方、プロはあたかも実戦のごとく、観客に応えるパフォーマンスで、敵を敵として捉えさせる興行的イメージ付けの刷り込みをする。
ここにプロとアマの違いがあるのか?
フェアープレイの精神を表すものはあっても、価値観の相違であって、プロとアマに違いは無いのだ。
観客を乗せるか、乗せる必要がないだけの差である。

ルールをより危険にしたものがプロで、礼儀はいらない世界?
命をかける戦争でもあるまいし、ちゃんちゃらおかしい。
格闘スポーツは価値観と共にあり、商業ベースか心身鍛練などに分けられる。
プロといって世に悪影響を与えるパフォーマンスは、愚の骨頂に他ならない。

では相撲は?
相撲の本質は神事である。
神へ奉納のための闘いなのだ。
ただの倒し合い、押し合いではないのである。
実戦性は必要ない。
優れた礼儀作法と、それに伴う精神構築が最重要なのだ。
宗教は普遍的無意識に、正を正しく埋め込むものだからである。
神道である相撲は、その神に捧げるものなのだ。

では佐山武道は何のために闘うのか?
私の思想は武士道精神の復権である。
武士道は宗教ではない。
義を最上に置き、精神規範に優れたものである。
現代に対応した、封建制、男尊女卑などの無い、21世紀のものでなくてはならない。

当時は「お家」を構築し、その土地を統治するために、規範を重視し優れた武人を育てた。
武士道は宗教に飲み込まれず、自らが規範を構築していき民衆に影響を与えた。
現代においては素晴らしい精神性のモデルだ。
もしあの頃のサムライが、封建制度や差別の無い、現代にあるとするなら?
頑として規範を通し、マナーを守り、差別を嫌悪し、堂々と優しく、国を愛するだろう。

そのような人間を育てるのが佐山武道の指針である。
真に強くなければ、それは訪れない。
人はどう動き、どう弱さにヒビくのか。

文武両道は、威圧の社会を縦に生きるための構築である。
縦を造るには、どのような武道であるべきか?
何のために闘うのかは、何のために礼をするのかと同等な思想であり、それは真の文武両道を形成するためである。
武士道の縦とは「義」である。
宗教ではないが、無意識に同じように形成されるからだ。

佐山武道には何があるのか?
各宗教に教会やお寺や神社があるように、武士道の義を育てるには武道がある。
秋から始まる新武道は、異質な感もあるかもしれないが、試合場そのものが武士事の場になっている。
義を構築する場であることを主に見てもらいたい。
いよいよ具体的な時に入って来た。

2008/6/6(金)

現代多くの日本人には信仰心がない。
私も信仰と言われれば無い。
外人に聞かれたとき、いつも武士道と応えている。

世界の一神教は性悪説を取り、人の本能は元来残酷で悪なもので、それを神に定め見守ってもらうために神と契約をする。
仏教などは、人の本能は元来善であるという性善説を唱え、安らぎや宗教哲学を求め、人生のいつの時期にでも入信することができる。

前者はほとんど生まれたときから、神と一体となった思想教育がなされ、縦で生き、ぐらつきがない。
後者は仏教社会という影響下で、本能のまま自由に横に生きる。
横は左右にブレはするが、教えや安らぎ等で安定をさせるのだ。
両者ともに線の根本が、正しい道理に基づくという前提を持つ。
線が薄かったり歪があるのは、生自体に規範がないことなのだ。

そして神道は、全ての物に神は宿り感謝をし、人自体の存在も神に感謝をする。
教えや契約もない。
神から与えられた生だから、善に生きなさいというピュアーなものだ。
横の線が濃くまっすぐな姿である。

どれもが人生の哲学であり、どう無意識を構成させ生きるべきかを唱えているものだ。

縦の線の薄い仏教や神道ではあるが、かつての日本人はブレることがなかった。
我が国には武士道があったからだ。
紛れもなく義を無意識に入れ縦の線を形成し、宗教ではないから横とも密接に連帯する。

世界は平等となり誰もが自由だと先進諸国が発達した今、縦の線の無い者は、競って金を神にする。
その本能は押さえることが出来ない。

しかし、一神教でいうならば、金の上にあるものが神であり、仏教的に言うならば悟りを開くことになる。
神道的なら金にも感謝する。
何もなければ弱い歪な横の線となり、知らず知らずに金が縦となる。

信じられるのは金のみ。
生き方は二の次。
ここに安らぎは無い。

戦後GHQの6年半もの占領期間を通し、サムライは死に絶え、貢物をする者が絶えず、「プリンシプル」原理・原則・主義という言葉を常にしていた白州次郎は嘆いた。
明治政府は、一神教で国体をまとめなければ、列強諸国に対応できないと、国家神道の礎を築いた。
当時、今の我々には創造を絶する、列強の驚異であったろう。

フィリピンは330年間スペインに、インドネシアは350年間オランダに、インドはイギリスに、インドシナはフランスに、中国南部はドイツに、中国本土もイギリスに、そして新興国として、北方からはロシアが南下、アメリカは黒船外交で進出開始。
そして彼らの普遍的無意識は言う、文化や貿易を開いてやるのだと。
こんな脅威、誰がじっとして待てというのか?幕府も維新も何のための争乱だったか?
今の日本人なら、チビリそうになりながら、どう諂うかを考えるのみだろう。
明治が国体を一体化させるのに急務であったのは当然である。

我々の普遍的無意識、敷島の空間は先人三千年に及ぶ先人の足音が聞こえる大地である。
ピュアーな精神は非常に高いレベルにあった。
杜の鎮守様を崇拝し、自然に宿るすべてのものに神がいて、家族は一夫一妻制、平和もあり、そうでない時代もあり、飢餓や天災を体験した。
人々は礼儀正しく街も清潔、かといって恐怖政治に脅かされているわけでもなく。
軍事政権が当たり前のように、封建制に従った。
列強はこれまで見てきた、どのアジアの国とも違うと称し、奇跡だとも言っていたのだ。

この世の不可解な出来事や怪奇的現象を、ほとんど知ってしまった私たちにとって、空海における科学密教は納得できる。
現代科学がここ100年で切り開いてきた意識・無意識という二元論を、千年以上も前から九識論を具現化し、神は自己に宿るという、変性意識と無意識の関係を解いていた。
空海の知識は、当時の精神科学が相当進んでいたとわかるが、私はさほど驚かない。
かえって現代の多くの日本人が誤解している、あまりにも幼稚な変性意識(催眠)の認識には驚かされる。
精神を情報操作化された我が国では、しょうがないのかも知れない。

そもそも変性意識は古代エジプトで盛んで、その後、宗教に使われ、中世では南米のシャーマンが行っていた。
諸外国の学者が南米に行き、今も伝わるシャーマンになる者もいるくらいだ。
しかし現代は変性意識を理解した者が、被変性意識者を統治する時代ではない。

戦争に勝ち、優秀なる民族がために、危機感を感じ、精神的な去勢をするのは当たり前のことである。
歴史を変えられ文化を取られ、精神性を去勢された横の線でフラフラする姿。
拝金主義だけが進み、平和ボケを助長する姿。
精神基底の無い者が自由・平等・博愛を叫んで、はき違えるのは当然のことだ。
愛で構成されたキリスト教、死で構成された武士道、真逆の心理ではあるが、縦の線、規範の重みでは一致する。

私は新たに今興そうとしている精神基底を死で構成するつもりはない。
死を越えた生なる姿で規範を構成するつもりだ。
最初から生のみに行くつもりも無い。

人の無意識にはそれぞれの観念のパートが存在している。
愛で構成されたパート、死で構成されたパート、ならば死を越えた規範心と慈悲で構成されたパートは、新たな生なる環境を構成し、縦と横の充実した現代社会が創造されるはずである。
自己の経験にある無意識の各パートは、自我防衛のために、最も自分に心地よく作っている姿である。
そこは過ぎ行く時間や経験で変わらなくてはならないはずなのに、柔軟性を無くし、変われないでブレーキをかけ、全てのパートに障害をおこし、横へのブレが生じてしまう。
去勢された崩壊社会ではなく、規範に優れ、免疫力を身につける精神基底「義」が必要なのだ。

本来催眠とは無意識に働きかけるものだ。
ショー催眠における暗示術も、催眠(変性意識)を深みへ進化させるのに役立つものではあるが、その場の驚きや笑いで終わっても意味がない。
変性意識に入り、無意識の環境を変えてしまうものである。
無意識に働きかける、専用の心理的暗示が、現代催眠と言われる本物の心理催眠なのだ。
ようするにパートに働きかける、計算され尽くした催眠下心理学なのである。
無意識を研究し、人間本来の構成を知らなくては、そのスクリプト(暗示構成文)は出来ない。
世界の催眠心理学者達が編み出した、数々のスクリプトがあり、日本は本当に立ち遅れている。

無意識を把握すると、その構成を知り、人はどう動くかが解ってくる。
すべてが崩壊している現代日本を考えてみよう。
何が起こっているのか真実を見極めよう。
私たちはプリンシプルを胸に、ここで復活しないと後は無い。
歴史のみを気づき「そうだったのか!」と済ませている場合ではないのだ。

佐山サトル講演TIA「プリンシプル」が、単なる有名人や自己啓発ものでないことは、来ていただいた方には解かるはずである。

2008/6/4(水) 修斗

先日、修斗の浦田会長から、怒りの電話があった。
ゴング格闘技に許せない記事が載っていて、これからどんなことをしても裁きに行くとういのだ。
一応修斗が心配になり記事を確かめさせたところ、確かめた元修斗の者も怒り心頭して報告してくる。

当時のことをよく知っている浦田会長達は、その調子の良い記事内容に、憤りを感じたのでしょうというのだ。
私はというと、格闘技の記事や雑誌は全く見ないから、何があったのか解らないし関わる気もしない。

修斗から佐山を追い出したのは我々で、佐山が帰って来やすくするという内容であったという。
どうせ記者が悪いのだろうと思っていたが、その者は、紙のプロレスにも、言いたいこと言っていたらしいと聞かされた。

そういえばその頃、親しげに電話がかかって来ていた。

何を言っているのかよくは知らないが、当時10年修斗を創始創設し、選手を育て、育成のために無理な興行を繰り返し、約1億円の負債があった。
ある会社が乗って来て、それでは道場を作り、興行も任せてくれということになった。
ヒクソンを呼んだりして、その会社はより負債が増えた。
元々業績が悪化していて修斗を利用したかったが、このままでは1億の負債をもいっしょに背負い込んでしまう。

案の定、何だかんだといちゃもんをつけ始めた。
何とか1億円の負債を追い出したかった彼らは、若気の選手を集め、
我々が付いていれば将来道場を提供する。佐山を捨て我々につく人?
とやって手を上げさせたのだ。

その会社は楽に修斗を乗っ取り、一億の責任もなくなった。
いちゃもんをつけ始めた頃から、それに加勢した者もいる。

これが真相である。

最初からその名前も判っているが可愛い選手達だ。何もいう気はなかった。
私にとって既に、その会社が興行をまかせてくれといった時点で、私の修斗ではなかったのだ。

ご存知のように私の理想はまったく違うところにある。
もともと若気の至り、ルールや技術は育てても、今私がいう義は育てられなかった。
格闘技を創ることより、人間を造る方が第一である。

今回の記事はそのことを摩り替えようとしているという。

私にとってそんな者に育てられた選手を見ても、金を餌にした猿にしか見えない。
それを飼うのが金目当ての猿使い。

当時、私が本を出し創始した修斗は、私のサインがなければ商標の継続ができなかった。
今度選手達は「先生!」と、満面の笑顔を見せてやってきた。
そんなレベルである。

私は気持ち良くサインしてやった。
何の未練も無いからだ。
どっち道、真実は明らかになり、彼らは歴史的な恥部となるだろうと、心配さえしていた。

感謝することは、このような者達を見て、私は一から精神性を勉強し、新しい武道を創ることに燃えた。
あれから十数年、人間の本質、強さ弱さ、心理、生理学、催眠を経て、物凄い物が出来ようとしている。
義を背負わせた掣圏の選手は、まったく礼儀作法が違うのは当たり前のことである。

その後、その会社は潰れ、何度も帰ってきてくれと頼まれたが、はたして私が帰るだろうか?
うまく誤魔化さなければ、運営が出来ないのは解るが、佐山はそのクーデターに反抗して、今の掣圏をやっているというすり替えは馬鹿らしい限りだ!