2009/5/27(水)
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
江戸中期に入り現在の長崎、鍋島藩の家老山本常朝は、「葉隠」として武士道の代表的な言葉を生み出した。
乱世の世から安定し、世の中が平和ボケして来た頃、若い侍やその世相を見て、家老の愚痴ともいう内容を口述筆記したのだ。
平和な時代を進む中で、侍のあり方を戦国魂が残っている年寄り達が、嘆いている書だと杉山氏は言う。
その時代の老人達は皆一様に同じ危機感をもっていた。
文化も精神基底も無くそうとしている、現代日本が置かれている状況と似ている。
ソクラテスの時代も「今の若いものは」と嘆いていたらしいが、どの時代にもある愚痴では済まされないのが「葉隠」である。
なぜなら武士道がかかったことだからだ。
国体がかかったことなのである。
「葉隠」は、禅と陽明学と儒教が混ざった武士道思想だ。
戦国の精神基底からみた侍のあるべき姿。
武士道の構築は、時代が変われば、その基準も普遍的無意識も違ってくる。
だが現代日本のような、敗戦精神処理に浸からされ、精神基底を無くされた現状の基底で、武士道を造るわけにはいかない。
平和ボケと、本来国家がある姿をふまえなければならないのだ。
そこには大きなギャップが待ち受けるだろう。
私は大胆かつ慎重に思想を進めている。
幾度も壁にあたり、答えが出るまで、あるいは本当にこのまま進んで良いのかと頭を悩ませることも多々ある。
そのときはなんなく休むことにしている。
高杉が難題に当たったとき、いつもある一室にこもり、大の字になって天井を見つめていた心境にあやかるのだ。
最近アメリカのタカ派の大使館員とよく飲む。
彼らの愛国心は中途半端ではない。
先日までイラクに駐在し、今度はアフガンやパキスタンに行こうとしている。
国のためなら死ぬことも辞さないというのだ。
彼らは無頼の輩ではないし、敬虔なキリスト教徒で、タツーも不良も許さない、エリート集団である。
少し前、ある武道家と論議したことがある。
「今の武道家は大家であろうと、スポーツ化してだらしがなく、死をかけることができない」という内容だった。
私は、そんなことはどうでも良いと答えた。
武道によっては、姿勢を正し精神を安定させ、不動心を求めるものもある。
大脳生理学上、武道本来の戦闘心の向上は別にして、今の日本で文化の継承や、平素の人間性を造るには、こちらの方がまだましではないか。
武道とは本来精神基底を造るものであり、従来本物の侍は当時なら「お家」のために戦に行ける思想を持つものだと付け加え、その大使館員のことを例にあげた。
そいつはイラクへ希望して行き、一台おいた先の車が自爆テロにあったビデオを見せてくれたことなどを言い、愛国心に溢れ、規範精神を持った彼らこそ、私達が忘れた侍の姿ではないのかと言った。
平和ボケにボケているこの国で、真の武士道を復活させるのは容易な事ではない。
私が真武道を立ち上げる時、その思想や決断は、あらゆる所で衝突するし、あるいは無視されるだろう。
前回のプリンシプルは、その基本姿勢を明確に打ち出した記念する講演であった。
真の武道家が国家や思想を忘れ、単なる格闘技の技術や精神に走るのは愚の骨頂である。
町人拝金主義者のバカ格闘家共と何ら変わらないではないか。
バカらしい!
この国家にヤツらはいらない。
今回のプリンシプルで発表したのは。
「義をみてなさざるは 勇なきなり」武士道の代表的な言葉に対し、
「死を見てなさざるは 義なきなり」である。
現代武士道「真陰」は、サムライの死を改めて見つめなおさせたものだ。
「武士道とは死ぬこととみつけたり」の葉隠の有名な言葉は、死ぬ気で行えば生きれるという、死を超越した言葉である。
その真の意味が何か解き明かそう。
新渡米氏による武士道では、義と勇は兄弟のようなものとあるが、良い子に規範を教えるには良い解釈だ。
しかし本来の武士道とはそんな甘いものではない。
戦闘者の心が民の生活にまで染み込んだ規範である。
「義」は正義でもないし義理でもない。
実は義のみを構築しても、サムライにはならないのだ。
武士道が義と一体化しているものは死である。
死は義と一体化して死を超越する。
最も深い覚悟を与え、不動の人間性を造る。
武士道は行動を勇気で表さない。
最深の「義」が当然に出るもの、あるいは狂愚となって出るものなのだ。
真の義を体得したとき、死を超越した総合的な不動心となり、本物の「勇」が構築される。
義に対し当然の行動が平然と出来る不動心である。
私達は神から掲示を受けたわけでもなく、死んで神の元に帰るわけでもない。
武士道は性善説を発達させ、本能は死んでからも恥を後世に残さない精神を育てた。
我が国の精神文化だ。
性善説を育てたのが、儒教であり、禅であり、陽明学であり、戦闘精神から生まれた、死と義の一体思想なのだ。
単に不動心といっても、心を落ち着かせる不動の精神状態のみをいうのではない。
普遍的無意識に構築された、総体的な姿なのだ。
興義館は真のサムライを造る機関である。
友のアメリカ大使館員は、「極右といえば、オレも極右かもしれない」と平然と言った。
色々話しているうちに「これもそうだ、あれもそうだ」になり、何だ普通のことじゃないかという結論になったのだ。
日本人は何も無さすぎるとも言った。
性善説も性悪説も放棄し、調子よく性悪説に従順した日本人。
性善説が育てることの出来るものなら、もう一度復活することは出来る。
しかも科学と倫理においてさらに進んだ最高のものを。
私達はもう失敗はできない。
ここまで落ちた史上最低の精神文化で、遠回りすることは許されないのだ。
性善説たる現代武士道「真陰」は、育てがいも充実したものとなる。
武士道といって、佐山はいつ発表するのだ、という声もあるかもしれない。
試合場を作り、選手に試合をさせる発表会はいつでも出来る。
もし安易に行えば、また町人拝金主義者共が群がり、日本の将来をドブに捨てることになる。
私は修斗を創る前から言っている、相撲のようなものを創りたいと。
それには相撲の100倍以上の研究と精神浸透が必要なのだ。
選手が、関係者が、後援者が、ファンが、一体となったものでなくてはならない。
もう一度言う。
日本の将来をドブに捨てることは出来ない。
6月26日(金)
ハリウッド大学院大学 ハリウッドホールにて「教育に体罰を考える」シンポジュームを行います。
一部と二部に分かれ、
一部が石原慎太郎 東京都知事 と 櫻井よしこ氏 の対談
二部が私を含めた9人のパネルディスカッション
開場 午後6時
開始 午後6時30分
チケットは1000円
興義館にて販売しています。