最新情報 2009年6月

2009/6/11(木) 死の超越人格

義と死は一体化した価値観のものである。
しかし貴方は義を通そうと、死をかけることが出来るだろうか?
意識で死を考え行動しても、死は乗り越えられない。
理性となって意識に表れるからだ。
真の義とは死を超越したものである。
死で構築された義は、もはや意識で死を考えない。
行動をとるのみである。
義の構築のみが義を突き動かすのだ。
反対に自殺者は理性が死を捉えてしまう。
義を通すとは狂愚という正の行動である。
武士道の死生観である。

不動心は義を背景に、狂愚でさえも不動で捉え不動で行なう。
リラックスとは生理的に精神をリセットしたものであり、義の構築は、落ち着いたブレない姿を造り、どのような境地においても、浮ついた情動の無い、リラックスした精神状態を生み出す。
不動の人格とは、生理的にリラックスした情動回路で、義を構築した者の姿なのだ。

愛で構築された人々がしめす礼と、義で構築された人が行う「礼」は精神背景がまるで違う。
前者の場合の「礼」は愛情たっぷりで、「貴方に危害を加えません」という姿である。
後者の「礼」は平時において、「私は義を構築しています」という、大変重要な精神基底である。
その姿には、相手に敬意を示しながらも、堂々とした内面の覚悟が潜んでいる。
私は堂々としていますという、無頼の礼は愚の骨頂であり、相手に「私は強いのです」と子羊が虚勢を張っているにすぎない。
街でバカが虚勢をはって歩いている姿と同じである。
下に内側に決まっている礼は素晴らしい。
強者が礼をするから「礼」なのである。

愛で構築された人々が、街で困っている人を助ける精神背景と、義で構築された人が助ける精神背景はまるで違う。

例えば、それが老婆であった場合。
前者は、当然のようにかけより、いたわり、抱きかかえ、最愛をつくすだろう。
後者は、当然のようにかけより、最善をつくすだけである。
両方とも無いものは、慌てふためくか、見て見ぬふりをするだろう。

例えば、街で誰かが暴漢にあっている場合。
前者は、当然のごとく愛の正義心を起こすだろう。
後者は、当然のごとく義の狂愚心で行動するだろう。
何もない者・・・・・?

堂々とした姿こそが義の人格なのである。

武士道は消されている。
一刻もその精神基底を取り戻さなくてはならない。
性悪説である本物の一神教は戒律も厳しく、しっかりとした色々な愛がある。
我々は性善説であり、生きるために修得しなければならない基底がある。
その文化が武士道なのだ。
生きるための免疫を忘れ、精神基底を金と平和ボケと権利にし、愛の構築も無いのに愛を受け売りする愚者共。
こんな日本のねじれは、一瞬にして直してみせる。